ファンとメンバーが紡ぎ続けるBerryz工房の10年とこれから(Berryz工房「永久の歌」のレビューに代えて)

Berryz工房のラストシングル「永久の歌」のMVが、プロモーションバージョンで公開された。
2014年11月3日現在、YouTubeのBerryz工房公式チャンネルと、ハロ!ステの#90で、見ることができる。

この「永久の歌」のレビューという体裁を借りて、ずっと思っていたこと、そのことが少し「確信」に近い方へ動いたように感じているので、そのことを、このレビューに託して。

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Berryz工房ラストシングル「永久の歌」

この「永久の歌」という曲は、先に投稿して公開していただいたBerryz秋ツアーの座間レポートでも述べたように、明るい曲調なのに、実に胸に響く曲だ。
歌詞は引用しちゃって良いもんかどうか非常に危ういので、一切引用なしで済ますとなると私が主観的に感じたことばかりを書き連ねてしまうことになって恐縮なんだが、それでも頑張ってみましょう。

明るいポップな、それも王道な曲調にのせられて歌われる内容は、Berryz工房ではなくなった将来の、ずっと将来のメンバーたちが、今現在Berryz工房のきらびやかなステージを、現在を過去に見立てた未来の時点での思い出として語っているかのような歌詞で、実に胸にせまる。

文字列で語ることは最初から不可能なのだが、ハロプロの現場は、どのグループのものであっても、非常に楽しい。現場ならではのサウンドによる空気の振動も、それぞれの想いを込めて掲げられるペンライトやコールなど、ファンも一緒に造り上げているステージ感も、メンバーがそこに居るという臨在感も、何もかも、液晶越しでは再現できない(もちろん文字列では表現しきれない)。
そのすばらしいステージを、きらびやかなパフォーマンスを、もうその舞台に立つことはなくなった時点からふり返って懐かしんでいるかのような、そんな歌詞だとも思えるのだ。
うっかり油断していた私は、いい歳をしたオッサンのくせに、たいへんな醜態をさらしてしまったことは、すでに公開いただいた座間のレポートで、ご報告の通りだ。

一見、明るく、将来へ向けての希望に満ちているかのような内容でありながら、私が思うには、「永久の歌」は、将来の時点から現在を過去としてふり返っている、Berryz工房からの、ある種のアンサーソングである。
そして、そのことが、実はあることを明らかにしてくれている、と私は思っている。

インサートされるあの頃のみんな

将来の時点から現在を過去としてふり返った未来の思い出を語ってるんじゃないか、と書いた。

「永久の歌」のMVでは、現在のメンバーのパフォーマンスにのせて、過去の、デビュー間もない頃のメンバーの映像が、セピア色でインサートされる。これは、むしろ、現在から過去を(まんま)ふり返っていると見えるし、「これまでの10年」を演出していると見るのが正しいだろう。

ファンが、Berryz工房を、今現在の目の前のパフォーマンスやメンバーのあれこれだけではなく、10年の積み重ねを踏まえた現在を見ているということ、10年の歴史を現在に重ねて見ているということを、スタッフも、メンバーも、きちんと理解しているかのようだ。

eien-saki

最近では、なかなか大人っぽく、艶っぽい目線を送ることもある佐紀ちゃんだが、ニッコリしたときの顔全体のニッコリ感に変化がないのがすごい。
でも、あの頃と同じようにショートにした佐紀ちゃんは、一生懸命さばかりが前面に出ていた頃に比べて、余裕も出てきた。いつのまにか落ち着いた雰囲気のすてきな女性になった。ほんとうに、すてきな女性になった。ほんとうに。

eien-momoko

ももち結びを封印した嗣永さんだが、おかげで「一番変化がない」と言われながらも、スッキリと大人びていることがよくわかる。ももち、すっかりお姉さんになった。ステージのMCで、困っているメンバーに絶妙のパスを出すという役割だけじゃなく、ほんとにお姉さんになった。

eien-tinami

千奈美ちゃんも、メンバーからですら「変わらない」と言われるけれど、ほんとうにきれいになった。笑顔がトレードマークすぎて、たまに笑顔じゃないと怒ってるみたいで恐いと言われるのが悩みと言っていたこともあったけど、笑顔じゃなくても、きれいになった。それに、なんか上がり下がりのあった様子も、安定しているし、落ち着いたと思う。総じて、ほんとうにきれいになった。

eien-maasa

須藤さんは、表情が自然になった。MVの茉麻は、楽しそうにしてる。
℃-uteの岡井ちゃんが、ダンスの先生に「笑わせてあげて」と頼まれるくらい、固かった須藤さんの表情が、柔らかく自然になった。世界中を癒やせるくらいに。

eien-miyabi

「ずっと変化がない」と言えば雅ちゃんだけれど、こうしてみると、目元がぐっとやさしくなったように思う。雅ちゃん、もちろん、ずっと美人で、ずっと華やかだけれど、表情の眼差しも、最近、すごくやさしくなった。雅ちゃん、圧倒的なオーラのまんま、表情がやさしくなった。

eien-yurina

もとから美形ではあったけれど、天然というよりも独立独歩すぎるマイペースというか、あんまり周囲を見てないというか、ノープランすぎる熊井ちゃんだけど・・・美しい。
ほんとうに、美人です。でも、たまに見せてくれる、芯から嬉しそうに笑ってるときの独特のクシャクシャ笑顔は、あの時のまま。

eien-risako

あの頃も、今も、お人形さんのような梨沙子さんだが、周囲からのコミカルなツッコミも、時に役割を無茶ブリされるボケも、それを嫌がる様すらテンプレート化するほど、たくましくなった。朗々とステージに響きわたる迫力のボーカルだけではなく。

ラストシングルのMVにセピア色で挿入される、あの頃のメンバー。
この演出は、私たちが見ているものを、きちんと理解して、きっちり狙われたかのようだ。

私は、これこそ、そのように「ふり返る」ということを曲全体に拡張するためのひとつの仕掛けだと思う。

あざとく狙われたのではなく

でも、これは演出として狙われたのだろうか(いや、もちろんそうだろうけれど)。

明るい曲調に未来の思い出を語る歌詞がのせられているだけなら、それは深読みというものかも知れない。しかし、この曲については、MVの衣装について、ハロ!ステの#90で、嗣永さんから重大な証言が出ている。
曰く、このチェック柄のジャケットは、デビュー曲である「あなたなしでは生きていけない」の衣装を意識している、と。

スタッフもメンバーも、ファンが10年の歴史を今に重ねて見ているということを、ちゃんと理解している・・・と書いた。
けれども、ちゃんと理解してるって、どういうことなのだろうか?
サンプリング調査でもしてマーケティングした結果、ファンの気持ちがわかりましたってものではないだろうと思う。きっと、見ているものは、スタッフも、メンバーも、同じなのではないか。Berryz工房(や、広くハロプロのすべて)に対して、ファンが勝手に読み込んでいると思っている物語は、実は、スタッフや、メンバー当人とも、相当な程度、共有されているのではないだろうか。

同じ風景を同じ気持ちで

もちろん、通常の意味で、ファンの思い込みがスタッフやメンバーと共有されているなんてことは、あるはずがないとは思っている。

私たちが享受できる映像や音声の大部分は、編集されたものだ。当然、素材がそのまま提供されているわけではなく、なにがしかの意図が加わって加工されている。

だから、私たちが、いかに「雅ちゃんって、ほんとは ももち のこと大好きだよね」と確信しようが、本当に夏焼さんが嗣永さんのことを好きなのかどうか、それは、わからない。

どんなに「千奈美ちゃんと ももち って、仲良いよね(マジでギスギスしてた時期があったことも本当だけどさ)」と思おうとも、実際のところは知り得ない。

どうしたって「熊井ちゃんって性格が可愛すぎるよね」としか思えなかったとしても、本当の熊井友理奈さんが、どんな人なのか、私たちには明らかにされることはない。

自由で傍若無人のように見えて、千奈美ちゃんは、ちゃんとステージやイベントの場をしっかり回すよね。もしかしたら、ももち以上に、他のメンバーにパス出してるよね、と思っても、ほんとうのところはどうなのか、わかる日が来ることはない。

ツンツンしてるのは私なりの愛なんだと梨沙子さんは言うけれど、たまにマジでムカついてるよねと思えたとしても、それを問いただすことはできない。

ぶっちゃけ、一番自由で好き勝手なのって、佐紀ちゃんじゃねえの?と思っても、推測以上にそれを確かめる術はない。

「なんだかんだ、Berryzのみんな、茉麻に触られるの、喜んでない?」と思いたいとしても、それは、わからない(これはちょっと違うかも)。

だから、こういう(↓)具合に思い込んだものが、メンバーと共有できているというわけではない。

そうではなくて。
そうではなくて、一人の人間としてのメンバーのあれこれに対してではなくて、この場合ならば、Berryz工房の10年間というものに対して、もっと広くは、ハロプロというものに対して、ファンの想いと、メンバーやスタッフ側の想いが、かなりの程度、一致しているのではないか、という意味で。
その意味で、ファンが勝手に読み込んでいると思っている物語は、実は、スタッフや、メンバー当人とも、相当な程度、共有されているのではないだろうか。

個々のメンバーを越えた、スタッフや事務所の思惑や演出を越えた、ある種独特な、抽象的構築物としての物語・・・あるいは、ファンが参加した上で、提供した側の予測や狙いを超えて展開してしまった物語。

熊井ちゃんが、いつだったか、ステージの上から見る会場の様子は、ペンライトがキラキラしていて、ほんとにキレイだ、この風景が大好きだと言っていた。
そう、想いを込めてファンが手にするペンライトに満たされたステージは、実に美しい。

℃-uteの舞美ちゃんが「℃-uteのステージだけじゃなく、℃-uteを応援しようとしているファンの人たちの姿勢にこそ感動した」と、コンサートを見に来てくれた友人の言葉として紹介していた。
そう、現場に行くと、いつも、ステージへ向けられるファンの声援に、自分もその一人ながら、感動する。

この意味で、ファンが勝手に読み込んでいるものは、きっとスタッフやメンバーと、思っている以上に共有できている。

今に重ねるのは10年の歩みだけではなく

「あの頃のメンバーの様子をセピア色でインサートする」のがMVの前半、一番目の歌詞のところだけ、であることに注目したい。ここから、その先へと、曲全体に仕掛けられた意味が展開するのだと私は思っている。

10年の歩みを今に重ねてファンが見ていること、ファンが見ている者とおそらく同じものを、スタッフもメンバーも見ていること。Berryz工房という物語を、個々のメンバーや個々のファンといった個的な存在を越えて成立しているある種のフィクションが、提供する側と享受する側で共有できていること。
従って、ファンが何を思っているかも、かなりの部分、理解されていると私は思う。

Berryz工房がそのパフォーマンスの最高潮の段階で活動を停止すること。
活動停止以降は今までのようにはステージやイベントやラジオやブログで、メンバーにはもう逢えなくなるかもしれないことをファンとして悲しみ残念に思っているだけではなく、あの傑出したキャラとパフォーマンスを誇った唯一無二のグループがステージを降りることを、(メンバーに逢えない云々といった個々のファンの利得を度外視して)惜しむこと。
そしてさらに、喪失感と悲しみの先で、それでもメンバーの人生と選択を祝福する用意がファンの側にあること。
きっと、ここまで読まれていると私は思う。

だから、きっと大丈夫

だから、Berryz工房の10年間を今に重ねてファンは見ているということを、メンバーもスタッフも、わかっている。メンバーも、そしてスタッフも、自分たちの10年を重ねて、今の自分たちを見ている。

だから、もしかしたら逢えなくなるかもしれないとしても、それでも、メンバーにはずっと幸せでいてほしいとファンが思っていること、極上の宝物のようなメンバーの笑顔が、自分たちの知らないところでであっても、ずっと続いて欲しいとファンが願っていること、このことを、きっとメンバーも知っている

もう一度、「永久の歌」の歌詞に戻りたい。

将来の時点から、今現在のステージを過去に見立てて語られる未来の思い出は、しかし、とても明るいものだ。決して、あの頃に戻りたいとか、あの頃は良かったといった具合の思い出され方をしているのではなく、とても明るく、キラキラしたものとして、自分の人生の大切なものとして未来の思い出が語られている。その思い出がとても肯定的に歌われている。「後悔」とか「残念」という色彩の思い出ではなく、とても明るい大切なものとされている思い出。

そのように未来から現在に向けて語ることで、Berryz工房ではなくなった(きっと結婚してたり子供がいてお母さんになったりしている)メンバーの曲の中における現在(未来)が幸せなものであることを予言するような歌詞ですらある。

活動停止になって、もしかしたら、もう逢えなくなるかも知れない。たとえ、そうなったとしても、メンバーの将来が幸せなものであって欲しい、自分たちを芯から癒やしてくれて虜にしてくれた、あの笑顔に、将来においても包まれていて欲しい・・・そう感じるファンの想いに、「大丈夫だよ。私たちは今でも幸せなんだから♪」と、未来からメンバーが応じてくれているかのような、そんな歌詞だ。

だから、きっと、ラストシングルの「永久の歌」の歌詞は、メンバーからのファンの想いへの応答だと思う解釈は、そんなに大きくは間違っていないと思う。

大丈夫だよ、私たちは幸せだったし、今だって幸せだよ」と。

だから、きっと大丈夫なんだと思う。

(文=kogonil)

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“ファンとメンバーが紡ぎ続けるBerryz工房の10年とこれから(Berryz工房「永久の歌」のレビューに代えて)” への4件のフィードバック

  1. avatar アライブ名無しさん より:

    投稿者には酷な言い方だが、先のライブレビューと合わせ、この人よっぽど好きなんだね以上に何も伝わってこない。
    例が冗長、文の展開の仕方が揺らぐ、など読み手の側に立って書いてない。
    だから伝わらない。
    アイドルに限らず、自分のひいきの対象はなんだって特別な存在であり、それが自分に取ってだけでなく普遍的な価値があることを伝えるためにはそこ工夫しないと。

  2. avatar アライブ名無しさん より:

    素敵なレビューと思います。

    評論やレビューでの歌詞の引用は問題無いのでは?

  3. avatar アライブ名無しさん より:

    10年もの間共に過ごしてきたさゆの卒業を前にして、そして間もなく終わるBerryzのツアーを控えて不安でいっぱいの中、こういう文章に出逢えた奇跡に本当に感謝しています。
    ただ、やっぱりどうしても腑に落ちない部分があって。物凄い名曲であり、ラストを飾るにはこれ以上無いほどの出来だと思うけれども、何故卒業式から3ヶ月も前でラストなのか。先日の中野でもこれが単独最後の機会とたびたび

  4. avatar アライブ名無しさん より:

    (済みません。途中で間違えて送信しちゃいました)
    仄めかされる発言があって。泥縄式の追加公演等も考え併せると、歌詞やMVの愛情溢れる造りとは裏腹に、何かもう事務所は得られるものだけ集めて、後は一刻も早く片付けたがっている、そんな印象を強く感じます。曲がりなりにもキッズのエリートとして出発し、山あり谷ありだったけどそれでも11年頑張って来た彼女たちに、この扱いは幾ら何でも…と。
    或いは深い事情があるのかも分からないけどそれは私たちには伝わる筈も無い(伝えるべきでも無い)から、どうしても疑問をずっと抱え続けなきゃいけない。
    そんな状況でこの先ベリのみならずハロ全体の動きを決める会社の“偉い”人たちを信じて、3/3以降もハロを応援すべきなのかどうか。正直すっかり分からなくなってしまっています。もちろん個々のメンバの幸せは、邪魔にならない様にしつつ全面的に応援したいと思います。が、それはそれとして最後こそきちっと整える姿勢が楽曲の中だけにしか見られないのは、ちょっと余りにもどうかと思うので。
    夜分に長文、本当に失礼致しました。

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